昭和41年01月25日 夜の御理解
今日で、あたし三日間です。午後から休ませて頂くんです。なんかこう風邪を引いて、もう背中がもう水かけられる様に寒いんですね。けど午前中奉仕さして頂いて、二日間午後から休ませて頂くもんですから、もう夜が寝れない。それで今日は、もうひとつ頑張ってから、起きとかないかんと思って、二時頃まで座っとりました。けれども、ほんによく背中が寒いんです。
家内がまあ何時も毎日見よるもんですから、二階が暖めてあります。床が取ってあります。いうからそれから休まして頂いたんです。それでもうそれでもう休まして頂くに、まあ楽にさして頂くだけで、眠るまいと思うてからまあ色々、布団の中であれこれ思いますと。有難い事を思うたり、けしからん事を思うたりこんなこんな事を思うてから、金光様はいったいこげん時はどげな(笑)そんな事まで思ってみるんですね。
こう言う様な思いをなさる事はなかろうと、こんな汚い思いやら、けしからん考えやら、なさらんだろうとが、金光様当りは、どんなだろうかと、私しは、思わして頂いておりました。そしたら、あのう生魚にこう、お刺しみにポン酢を、こう絞り込んどるところを頂くんです。寝ながら。そしたら今晩夕食に、二階に運んでくれましたのが。熊谷さんから頂いた。あのみどりのパンというのを毎日一食頂くんです。それにその、お肉を少しばかり付けて頂く。
所がその、それで少し足りませんから、何かもってこんかと言ったら、あ、昼にあのサバが、酢で締めてあるんですね、これならばあのいくら頂いてもよいと言う事だった。まあ大体私しは、魚どうしてん嫌いですけれども。あの酢で締めたのは、全然生臭くない。もうパンにあの肉の代わりに、パンにサンドイッチの様にして頂いてもう、それであの美味しく頂けれるるんですね。
本当に私、先程頂いた事、ふっと思わせて頂いた。ははぁ成程ですね、私共の心の中にどういう例えば、そのけしからん事を思うたり、いけない事を思うたり致しましても、私し共生身をもっとりますから、その有難い事ばあっかりは考えられない。特にその今言う様にこう、何時かんて言うて休んでおりますと、そして眠るまいと努めておりますから、色んな事を考える。
考える中にまあ様々なその考えで御座いますけれどもですね、そう言う様な、例えばその事でも、それをまあ一つの生魚と致しますならばです。それにポン酢が絞り困れておれば生臭くないと言う事だと私は思うたんです。ポン酢と言うのはこれは私し御道。ここの信心のこの信心だと。その絞った汁だという様な気が致します。お互い生身を持っとりますのですからどの様な事でもありましたり、又思うたりも致します。
それこそ、けしからん事も、思いますけれども、その思いが何時もポン酢の中に浸されておると言うものでなからないけないと、言う事ですね。そこに私しは怪我誤ちのない、そのおかげが受けられると言う事を感じるです。昨日、高滝さん所の謝恩祭が御座いまして、私し共が久保山先生と参りましたら、もう宮崎さんと、高山さんが見えておりますもん先生、もう落第生が二人揃ってここに早ようから来とりますち言うて、うんあんたどんだけが落第生じゃなかがのう、だぁれでん落第生だち。
毎日日参して来よる者でも、やっぱり又今日も落第した。と言うことばっかりなんですけれども、唯その落第したと言うことに気付いてです、そこに精進すると言う心なん。相済まんと、お詫びをして行くと言う。そこがまあお日参りでもさして頂いておる、違いだけのことだけのことであるけれど、果たしてその違いだけの、信心を頂いておるかどうか、と言うことなんです。
そして色々まあ他に行き所がないもんですから、部屋がいくらもないですから、先生と私しの所へ、そのですから、私しと一緒にもうこんなに沢山、おみかんをもって来ておりましたが、も、そのおみかん皆んなで、みんなち久保山先生は、あがられませんから私し共三人で、頂いてしまう位いに、その長い時間ですからね、もう四時には迎えにまいりました。ちょうど八時過ぎのお祭りまでには、一緒に話して、まあ朝まで昔話しをさして頂いたんですけどね。
そん中に、今宮崎さんがああして毎朝日参朝の御祈念にも丁度、十二月の始め頃からお参りしておられますんです。それと言うのも長男の息子さんが大工しておられます。あるそのお稲荷さんか、なんかの、御堂を購入してる所の棟梁さんだったんです。ところが、どう言う様な間違いか、どう云う事だったか知らんけれども、そのある朝出られたっきり帰えって来られんのです。ほでむこうの方にも大変な損害をかけておられる。
あの久富先生方の息子さんあたりも職人で行きよったそうですけども、その為にもう仕事が出来ずにですね。もう多くの方が沢山困っている訳けなんです。それでもうあっちこっち、にも参ったり、お尋ねしげ行ったり、そしていよいよ思い詰まって、こら椛目に長い間御無礼しておるから。本当に、こら椛目に一つ敷居が高いけれども、お参りさして頂こうと言うて、お参りが始められたんです。
そしたらあのう、神様ねすぐ安心の行く様におくり合わせを頂く、安心が行く様にお願いをさして頂きましょうと言う様な事だった。そしたら、それから、一両日いたしましたらですね。丁度暮れでした。ほんにあの押し迫ってからでした。あの同じ村内の方が博多へ行かれたんですね。ところがその博多の岩田屋の前で、その髭をこうはやして、もうそれこそ、みすぼらしい格好をして、そこの「そうじ」さんと言いますもん名前が「そうじ」さんと合われたという訳です。
そのニュースが、そんなお届けをされて、とに角どこの、お稲荷さんに参っても、何々さんに参いっても何月何日には、帰って来るとかですね。どこの方角をさがせとか言いなさるもんじゃから、椛目の先生も、その分かんなるげんでいっちょ聞いてくれと、まあ、自分も聞きたいのでしょう。そのお父さんやら、皆んなもそう言うから、お伺いされましたけど、その事については、私しは申しませんでした。
とに角安心が出来りゃ良かろうがなぁ、安心のでけるおかげを受けたらいいですよとゆうて、そのまあしとったら、そのいちそのよく日よくよく日、そうゆうニュースが入って来てまあ、みすぼらしい格好をしとったと言う事を聞いてから、まあ心配になるのではないけどももうほうまだ生きておると言う、どこかにおると言う事。しかも博多のまだ九州におると言う事がです。まあ本当に一家中安心致しましたと言うてから、お礼に出て見えましたけれどもそうう言う様な話しを色々さして頂きよりましたらです。
そう言う風に御主人が、まあ嫁さんにすりゃ主人になりますが、あの親が亡くなってから、毎日その飯田のなんか福寿園ですかなんとなんかお稲荷様の様な、まあ様なもんでしょうね。でそのそこへ毎日参られるそうです。そしたらその高山さんが前におってははぁそげなこっじゃけんあんた、おかげ頂き切らんとばの。あんたそのあそこ日高さんかなんか日高さまにお願いしたり、金光様にお願いばなさらんな椛目の金光様にお参りしござる、嫁ごさんな日高さん参りにそげなこつであんたおかげ頂くもんの。
そらもう昔御理解頂く根性はありますですけんね、そらもう本当に今日道々もう宮崎さんと話して来ましたち、あそこだいぶありますもん、歩いて来る間に、是はもう宮崎さん人ば責めたらいけんばのち、あんたがそげん、う、( ? )せと言う事は、自分の胸に手を置いてみなさい。結局身から出た錆びがのち言うて、もう本当に身からでた錆どこじゃなかて言うて、このまあ言うて来たと言うておられました。
それがですね、この金光様の御教えの中にもね、棟梁が何人もおっては捗らんと。物事相談にくれては、捗らん頼むと一心と言うたら、この方一心に定めいと、こう、仰る様なみ教えも御座いますですね。ですからこら私し共もですね。そういう様な場合に、ああそれじゃおかげ頂かんなと、言う様に感じ思うたり、時代がありましたですね。けれどもこれは、取次者としてはねこうゆう考えはいけん。おかげを受ける方の側ですね、これは一心がなければおかげは受けられん。これは間違いのない事ですけれど。
取り次させて頂く者はね、それを中和したりカバーしたり、そこを詫びたり、問題は、おかげさえ受ければ良いと言う事ですね。私しはそらもう、嫁さんが日高さんのおかげと言うても、ええ、そりゃあもうそんな、とに角椛目の先生の、祈りのおかげとも言わんでもいい。金光様の、おかげと言わんでもいい。問題は、おかげさえ頂きゃいい。と言う様な心の気持、状態で私しは、これは一事が万事にそうです。
ここで最近の御取り次は、そうです。まああすこはあの人がいっちょ、おかげ頂くと、まちっと、おかげがしゃんとする事は分かっとるばってんと言った様な思いがです。全然この頃、起こらなく成ったんです。しかしこれをですね、皆さんが段々身に付けておいでられたら、本当にあの皆さん自身が助かられると思う。私しは今日はね、まあその私し、寝ながら思わせて頂いた事頂いた事やら、その宮崎さんの、その事のお礼を以ってこう話して参りました。
そして分かって頂きたいと思うのはですね、結局愛の本質と言う事に付いてです。だから神様の愛と言うもの神様の思いと言うものその神様の神愛を分からして貰、神愛にこちらもどうかして、ならせて頂こうとするのが信心なんですからね。神様の天地の親神様ともあろう方がですね。あれは日高様に参りよるけんでいっときばっかりはおかげ、ひきまくろうなんて言う様なあさましい考えはおありにならんと思うですね。
そらあ例えばその私しの祈りの中では、おかげを受けたと思わんでもいいと言う心なんです。問題は本当におかげ、一日も早く安心のおかげの頂ける様な、おかげを受ける事だと言う事なんです。あすこは、本当に一家が揃えてから、あの息子どんでん嫁ごどんでん参るなら、こら外の事でもです、本当におかげ頂くばってんからその、一家勢を揃えて信心をする様にしなさい。
と言う様に例えば、言いもし思い思うておった時代から、段々それはそれなりにです、そのおかげを受けて行くと言う事を願わして頂くと言う様な心ですね、いわゆるその条件のない愛です。私しは、愛のその本質と言うのは、それだと思うんです。ですから、そう言う様なものをです、互いが身に付けて行こうとする事が、神様の思いに接近して行く事であり、本当の神愛を、自分の物にして行く事だと、こう思うですね。
その特に今日の婦人部会の皆さん達がです、一家の中の私しは雰囲気と言うもの、一家での中の、有難いと言うもの、言わばどの様な場合でも、例えばあの特に女の細やかな一つの愛情と申しますか、その愛情が唯、言う愛情ではなくてです、本当信心で生まれて来る所の、その愛情です。それが皆さんの、様々な子供やら主人やらの上にあろうけれどもです。それをあのポン酢でその臭味を取ってしまう位な、私しはおかげを皆さんが、頂きになったら、有難い事だろうとこう思うです。
どうぞひとつその愛て言うのは、その無条件なものこうしてやったら、こう思うてくれるとかそげなこっちゃ、おかげは受けられんという。そう思う心が、すでにもう本質的な愛を欠いておる事なんですよ。思うてくれんでも。分かってくれなくても。問題は、楽になってくれれば、おかげを受けてくれれば、私しのおかげと思わんでも、もうおかげ頂いてくれればという、ですから以前は、そこんところを、私しでも高山さんじゃなくても、言ったでしょうね。
それをそれけん、あんたがおかげが何時まっでん、暇が入ると思よったもんと、早い内嫁ごもいっちょ椛目に参って来る事言わんの。一緒に縋らなぁあんた。うんならおかげ頂いたっちゃ、金光様さまのおかげやら、日高さんのおかげやら、分らんじゃんの、そげなこつじゃ神様で両方ながら、それこそ相談に暮れなさってから、そらそんなこっちゃ受けられんがのうと。もう日高さんが働き御座るけんで、いや金光様が働き御座るけんでちゅうごたる事になったらどうするのと、まあいうたに違いないです。
けれども金光様は、そんな神様じゃないと言う事なんですよ。天地の親神様さまてそんな方じゃないと言う事、で、その神愛にこう接近させ、近づけさして頂くと言う事によってです。私し共の心が豊かに大きゅうなる、そういう心でです。例えば、どういう生臭い魚でもです、それを、その中和する働き、いわゆる生臭け生臭さがなくなってしまう様な、その働きと言うものが、本当の愛の中には、あると言う事ですね。
そうゆう愛を追求する。その愛の本質と言うのは、まあ、私しが今、分り得てる事はです、そういう一つの条件の無い、愛をもって、私しは真実の愛だと言う風に、まあ思うのですよ。ですけれどもこれは愛にもその、沢山の愛がありますから、ですけどもそのものではない。信心によって私し共が新たに磨き出されて来る所の愛、そういうものを、追求しておいでなられければならん。
特にもういよいよ、受験の本当に私しは受験期になりますと、沢山の人達のお取り次さして頂くんですけども、それを私しがいち々ですね、そら子供の事は、親が願わじゃこて、主人だけ願い出来たっちゃあんたげん奥さんも、願い来る事せんなと、親の誰もね本人が願いこにゃと、例えば本当に言いもし思いもしとった時代があるんです。けれども最近それ私しは、言ないでしょう。そう言う風には、これは私しは本当の愛に、だんだんこう目覚めて来ておるから。
、そう云う様な意味においての、このお取り次が出ける様に成ったんだと、こう思うのですよ。と言うて皆さん、ここはまた皆さんの場で、受けられた場合いすね。これは矢張り皆さんは二人で願うよりも、三人で願った方が、おかげは有難いとは、間違いありませんよね。矢張りそのあちら、あちらにも頼みこちらにも頼みと言った様な事じゃなくて、矢張りこの方一心と定めいとおっしゃる。定めて行くと言う、そこんところは間違いない様にしなければいけんと思うですけれどね。
どうぞ。